「ほら、あの、あれー…あるやんか、あれやん…」と、何かを説明するときに、あれ、が全く出てこずに、対話している人に委ねるそれ、の解を導く役割だったのが、だんだんと導いてもらう役割に代わり、遠くの方を見ることもしばしば。スタンドバイミーのあの曲が流れだすのだが、いやいや、違うやろ、と脳内再生された曲を強制終了させるわけだ。
話そうとしているコアの部分を他者に委ねることにも驚きなのであるが、あれ、と会話の僅かなヒントの中から解を導く聞き手の推察力にも驚かされる。
またそれとは違った(老化による失語というのか…)吃音、所謂どもりについてもいつしか感じるようになった。
どうやら常に起きるのではないようである。
話したいテーマについては理解をしているようであるが、頭の中で整理できていない状態にあるようだ。
その結果、伝えようと頭の中で言葉を整理し話そうとするが上手く出てこず、手を空で仰いでみたりなどの身振り手振りが増え、言葉をひねり出そうとするためか、上の方をぐっと見、眉間にしわが寄り険しい表情になる。
会話というものを簡単に考えると「しりとり」のようなもので、その時の会話の中にあるキーワードを咄嗟に拾い上げ、それらを素材に話を膨らませ、オチがあろうとなかろうと、高速に処理しているわけだから人間の言語というのは大変優れた能力なのだ、と感じる。
空想や閃いたアイデアなど未だ整理がついていないものを話すとき吃音のような症状が起きるが気がする。
見えなかったものや、分からなかったものが、何かをきっかけにして、考えや想いを体系的にまとめあげようとするのだから、それらを行いながら、上手く話すことの方が至難の業のように思える。
さて、日本の言葉というのは、緻密に、詳細に、情緒がある。
文章であっても、光景や情景、感情が伝わってくるほどである。
外人さんとコミュニケーションした時に、表情の豊富さやジェスチャー、身振り手振りが多いな、と感じる時があるのだが、言語の型のようなものであって、ニュアンス、感情をより伝えやすくするための言語補完のようなものであろうか。
どの国においても共通のものもあるし、独特のものもある。
見ているのは割と好きな方である。
とまあ、このようなまとまりのないようなことを考えていただわけである。
忘備録として書き留めておくと役立つこともあるだろう。
今日の作業用BGM
Norah Jones / Don’t Know Why