とある曲の高音の和音で構成されたギターのフレーズが聞こえてきた。
その曲はL’Arc~en~Cielのflowerのイントロで友達が弾いていた。
それを聞いた時わくわくしたのを覚えている。
15、6になるが、その当時仲間内でバンドを結成して音楽をやっている人がちらほらいた。
僕もバンドをやりはじめ、ライブに向けてベースを練習していたところだった。
当時はビジュアル系バンド全盛期でそれらのコピーバンドが多くいたわけだが、我々はどういうわけか流行にのっからず、THE BLUE HEARTS、THE HIGH-LOWSといったコピーで活動することになる。
後にオリジナル曲も出来てくるわけだが、当然というのか、コピーしてきたタッチ感のというより、パクリ、のようなオリジナル曲を披露することになる。
プロの音楽業界でも耳にすることがある「音楽性の違い」により僕は後に脱退することになり、いくつかのバンドに加入するも、やはり音楽性の違い、によって夢を諦めていくのだった。
活動中は当然面白いわけだが、おそらく縛られることが苦痛になってきたのであろう。
縛られる、というのは時間に、ということではなくて、ジャンルに縛られてしまうのに飽きていってしまうのだろう、と思う。
まあ要はいろいろとやってみたかったのだろう。
さて、L’Arcに戻るが、ベースを始めた頃は、L’Arcのベースは難しかった。
ずーっと忙しく指板を動き回っているのだ。
そんなことを思い出しながら、久しぶりに弾いてみたのだが、弾いていて面白い。
フレーズの作り方が上手いというのか、音の使い方が上手いというのか、弦の使い方が上手いというのか。
あれだけ遊んでいるのに、曲の土台となるリズムをしっかりと刻みながら、曲の味付けの役割も果たしている。
とまあこんなことを考えたり、わりとだいたいのものを耳で拾って弾いてみたりできるようになっているのは、音楽活動をとうに引退しているものの、ベースは弾き続けていたからだろう。
好きだからなのか…??
当然好きだからも大きな要素であると思うが、自分のうちなるものを音という形で自分の表現をしてくれることも大きな要素なのかもしれない。
カラオケなどに行って、歌を歌う、というのに近いかもしれない。
感情を音楽という形で表現できることによって、知らずに溜まっていくフラストレーションというのが解放されるのだと思う。
後は技術的なことか。
知れば知るほどに奥が深くなっていく。
まるで深淵を覗くような。
あまりの難しさに苛立ってしまうこともあるが(本末転倒ではないか…)、こつこつと練習していくと、弾けるようになっていて、達成感を感じることができる。
世の中には超絶プレイヤーがごまんといるわけで、彼らのプレイを自分でも弾けるようになると嬉しくなる。
理論がつかめてくると表現の幅が広がる。
こつこつと続けていくことは大事なことだと、わりとベースに教えてもらっているような気がする。
とはいえ、生きるうえにおいて優先順位は低く、経済的側面においては全く意味をなさないものを長く続けている。
ただ生きることにおいて、表現すること、は大きな意味があるのだと思う。
真夏のストレート
意思疎通
今日の作業用BGM
椎名林檎 / 青春の瞬き