ああ、また、あの音が聞こえてくる。
とても心地が良い音だ。
目前の作業を忘れてうっとりしていたが、ジェットコースターが黒い洞窟から勢いよく飛び出てくるように我に返った。
現実に焦点があったとたんに悔しさが込み上げてくる。
しかし、これというのは空回りする合図。
落ち着きを取り戻し、取り組まなければ全てが狂ってしまい、納得のいかないものを余所目に去らなければいけないのだ。
それでも、あの音が聞こえてくる。
「あの音」というのは、ずっと流れているわけではない。
はじめと終わりに道具と対象物が当たる音だ。
例えるならば、時代劇で侍が鞘から刀をゆっくりと抜いていく音、だろうか。
見事である。
素人でも技術の凄さが十分に理解ができる。
くもりなく、そして美しい。
その旋律に濁った音などひとつとない。
僕はといったら、独特の時間空間の中であせあせとしている。
効率よく、そして品質も良く。
「二兎を追うものは一兎をも得ず」ということわざがあるが、ここでは両方を追求しなければならない。
更には、今の目前のものだけに徹していればいいわけでもなく、360度にアンテナを張りながら取り組まなければいけない。
放射している線の先端に神経を尖らせながら、納得しえるところまで仕上げるのは至難の技、である。
しかし、達人たちというのは涼しい顔をして、なんなくこなしている。
放射線状の先端には、完全に僕も入っていて、何も語らず救ってくれている。
その姿がまた格好良く、悔しいのだ。
僕はこれらを観察し、分析し、言語化する。
そういうことによって、その凄さを薄いものにしてしまう。
彼らにとって、美学である、とか、哲学である、とか声高らかに語るものではなく、ただただ当たり前のことをしているのである。
時計の針が刻々と正確に時を刻むように、与えられた持ち場と全体が狂いなく遂行し完了させるために。
何事もなかったように戻ってく。
生活の一部という表現が当たり前といえば当たり前なのだが、仕事というカテゴリーで表現するよりは、朝起きる、夜寝るに近い感じがする。
彼らは決まってこういう。
「面倒くさいやん。だるいやん。楽したいやん。」と、にやけながらいう。
面倒くさいて。。。
こんな大変で面倒くさいものを、こんなにも完璧に。。。
と思いながらも、彼らの「面倒くさい」という意味が、なんとなくわかってきた。
好奇心というのが、この年になっても旺盛で、いろんなことを見たいし、触れたいし、体験してみたい。
そんな中で出会う達人たち。
彼らの生き様を見れる境遇にあることは、とても幸せなことだ。
あの音が聞こえてくる。
頭の中で鳴っている。
僕の腕がうずく。
彼らは、今日も、あの音を奏でているのだろう。