公園の芝に落ち葉と枝が落ちていた。
それを拾い集め、芝生に腰掛けた。
ベンチより低いところに座って空を見上げたら、こんなにも高くこんなにも広かったのか、と感じた。
辺りを見回してみると、アイラインが低くなったところからのパースペクティブがいつもより感じて巨大な空間にぽつんといるような気がした。
後ろを振り返ってみると、長い距離をなんだかんだと歩いてきたものだ。
枝や葉っぱを組み合わせて、軌跡を辿りながら、その時の表情を作っていった。
小学一年生くらいの子どもとそのお母さんが通りかかった。
子どもが興味をもったらしく、葉っぱや枝で描かれた顔を辿っていった。
「面白いね〜、またやってみようか」と
背中越しに聞こえてきた。
微笑ましいやりとりを聞きながらにっこりとしていた。
しかし、先ほどの親子が見た光景というのは、あまり見えない滑稽な光景だったに違いない。
世捨て人のような風貌をした中年の男が、公園の芝に胡坐をし、枝や落ち葉をかき集めて顔を作っている。
枝や葉を持つと、そこにあのときの記憶が映し出される。
「こんなことがあったな。」
それから配置していく。
「あのときにはこんなものに影響を受けた。」
「あのときの思想はこれで、生活や行動に顕著に現れた。」
そういえば、9月で7年目。
bow’s Designとして活動をはじめて、はや7年目を迎えた。
いただいた美味しい鳥取の梨をかじりながら、よく続けてこれたな、としみじみと感じる。
細々とこじんまりとしたデザイン事務所、大きな偉業をなし得たわけでもない。
それでも7年やってこれたことについては誇りに思う。
大変人に恵まれた。
そんな方々に応援いただき、支えていただいた力がとても大きい。
7年にして思うことは、自分は意外となんにもできない人間だな、ということを思う。
現在を悲観的に感じ、ノスタルジアに陥っているのとは違い、どちらかというと爽快感がある。
なんにもできない自分に気付いてしまった。
芝に腰掛けたところから見える景色というのはなんとも広く、知らないことも多く、見たこともないこともたくさんある。
自分次第でそれらを吸収することができるというのは、なんとも幸せなことか。
そう思うと、体にじんわりとエネルギーが染み渡っていく。
それは一過性の増強剤的なものではなくて、生命を全うするための栄養のようなもの。
最後の顔を完成させるための素材がなくなった。
そんなとき、小さな子どもが「はい」と鮮やかな赤をした落ち葉を拾ってきてくれた。