作業道具は全て手の届く範囲に置いてある。
椅子の上で尻を軸にして回転すればだいたい取れる。
工具や機械を使って作業する場合はそういうわけにもいかないが、回転椅子があまり好きではない僕は、尻を軸にして僕が回ればだいたい手の届く範囲に画材などを置いてある。
籠ってじーっとしているのはあまり好きではないのだが、(とはいえ、最近は過去に比べると引きこもりがちなのかもしれないが)作業中はできるだけ動き回りたくない。
作業中は用を足すのも煩わしく思うタイミングもあり、そのサインを忘れさせるように、作業に没頭しようとするも、やっぱり忘れ去ることができず、立ち上がる時はちょいと癪に感じる時がある。(そういう時は、良い流れが出来ているのだ。自分にとって良い線が描け出し始めた時なのだ。)
その流れを止めたくないのだ。
とはいえ、どうしようもない時は立ち上がらざるをえない。
邪念と言えようか、枷になっていた違和感が解消され、無になった状態でまた椅子に腰掛ける。
机の上に目をやると、抜け落ちた髪が一本落ちている。
我ながらよくここまで伸ばしたものだな、と関心してしまう。
意図がなく、自然で美しい形で落ちている。
特に曲線の描き方が悔しいほどに美しい。
その髪の描いた弧を見ながら、紙に模写してみるも、同じように描いてもそうならない。
自然が描く形や色はなぜこんなにも美しいのか。
おそらくは目に見える形を形成している小さな集合体の中にヒントが隠されているように思う。
(●毛ではないことだけ、明示しておこう。)
同じ人を描いていたのだが、似ていないことに苛立ちを感じていた。
いくつか挑戦してみたものの、やっぱり駄目だったので諦めた。
苛立ちが軌跡に表れ、続けても上手くいかないような気がした。
若い頃、今やっている仕事に就くなんて予想だにしていなかったから、将来を絶望し、ただその時を楽しく過ごす、というか忘れることで逃避するような生き方をしていたから、それは悔やまれることだ。
もっと見ていれば、もっと知ろうとすれば、もっとやっていれば…
小さな頃から表現することは楽しかった。
何も続かなかった自分が唯一続けられていることというのはこれで、運が良かったというか、人生どうなるか分からないものだ。
表現に対する思いや感情や考え方、手法は、時間とともに変化していくこともあるが、表現し続けることは変わらないように思う。
僕にとっては、生きるために食べるや寝ると近いことのように思う。
今日の作業用BGM
中村佳穂 /きっとね!
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