もう9月ですものね。
過ぎていく時間の流れが年々早くなっているような気がするのは、同年代の方も同じなのだろう。
興味のあることが増えたり、やってみたいことが増えたり、所謂願望のような念ではなく、実際にできるようになっていることで、進めれば進めるほど奥深きを知り、壁にぶつかっては学ぶ必要があり、広がりを見せてくる。
一生が短い、と悟るべきはもう少し早ければ良く、物事の理解についてもう少し早ければ、一生の中を動ける時間はもう少し伸びたに違いない。
この時の流れの速度が増加する度に上述のようなことを思念する。
こういうものは、過去の生き方を振り返り後悔する、というものなのか、しても無駄で過去に帰り、未来を変えることなどできないし、「さてさてこちらにタイムマシーンがありますが、あなたは戻りたい過去に戻る事ができます。いつに戻ってやり直しますか??」と夢のようなテクノロジーを使えるチケットがもらえたとしても「では、1秒前に。」と回答するだろう。
それは変えたいと思うところも多々あるし、こうなりたかったなどの願望も数えあがればキリがないが、不自由なことも多々あるが、現在は現在で、まあ、悪いものでもないと思う。
独特な時の刻み方をする田舎の山奥は、タイムマシーンで過去に戻ってきたかのような感覚にした。
あんなに目まぐるしく動いていた景色が奥に進むにつれ、ゆっくりと穏やかに変化していく。
ふらりとするのは、急速に巻き戻った時間に慣れていないからに違いない。
そしてまた急速に現在に舞い戻ってくるのである。
たまには現実から逃避するのも悪いことではないだろう。
世界や社会が日々出してくるテーマの中、踊り続けるのも阿呆らしくなってくる。
さてさて、仕事の合間を縫って、お絵描きをしている。
急遽頭の中に脈絡なく流れる言葉の数々や、風景やイメージをメモ書きなどしていたら、机の上に紙がわんさかわんさか、次第に机を飛び越えていく。
映画や音楽を流しながら仕事をしていたら、描きたいシーンや風景が出てきて、紙を横に置いて定期的に筆を走らせる。
作業スペースが小さくなっていくが、仕事に使えるアイデアになったりして、悪くはないものだ。
作業はやはり夜に限る。
日中の作業はあらゆる音が耳に入り気が散り集中が続かない。
夜の時間はもっとも「くさく」「らしく」嘘がない自分になれる時間である。
表現するにあたって、自分にとって良い時間なのだと思う。
雨が続いた日があって描いたもの。
雨は憂鬱になる。
日記「梅雨の一人言」
イラストレーション「大阪万博のユニフォームを描いてみた」
この辺は映画を流し見していた時に描いた絵だと思う。
しかし、良い映画に出会うのはなかなか難しいものだ。
どこかの国の映画は「獣かよ」という位にポルノシーンを描写する。
もうこれはポルノ映画だろ、という位に。
それは見たい時に見るし映画を見せてくれよ、と辟易とする。
物語の接続に違和感のある濃厚接触は何の意味があるのだろうか、と文脈を辿って考えてみるも、やはり意味がないことが多く、ああ、有名な女性が脱いだや濡れ場があるだのといった話題性のためのものなのか、と思うと反吐が出る。
これが売るため、だとか現実だとか、ああ、ですよね、としか答えが出ない。
映画を通じて何を伝えたかったのか、見せたかったのか、こういった疑問を感じさせる映画が多いこと、多いこと…
キャッチコピーに壮大なポルノ映画、と明示しておいて欲しいね、なら見たい時に見るからさ。
映画だけに関わらず、あちらを見れば、こちらを見れば、下品なものが多く出回るようになりましたな…
まあ、生きるため、なのか。
煩いから黙ってくれないかな。
今日の作業用BGM
Khruangbin – People Everywhere