bow's Design(ボウズデザイン)

駆け出す 写真

日記「鬼ごっこ」

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小さな頃は、テレビで何曜日の何時にあれやこれやと放映するから、あれだけ楽しく走り回って遊んでいたのに、ぴたりと立ち止まり時計塔の指している時間を見て、急いで家まで走っていった。
あれだけ自分が追いかけまわし、散っていた友人がこちらへ向かって全速力で走って向かってくる。
鬼であった自分が全速力で公園から出ていくから、何事かと叫び、息を荒らしながら、怒っている奴もいるし、笑いながら来る奴もいる。
鬼と捕まるまいと逃げ回っていた派閥がひとつの団子になって、それぞれの家へ向かって走っていく。
さっきの設定は既に消滅し、共通の話題となってあーでもない、こーでもない、出遅れたちゃりんこの奴が一気に団子を抜かしてばいばいと消えていった。
どたどた、ねちねち、とした軽やかでいるのだけれど、重たい足音がひとつ、ひとつと、離れていく。
乱暴に家の扉を開け、靴を脱ぎ捨て、勢いを殺さずテレビの前で体操座りを決め込む。

そういう楽しみにしていたものがたくさんあったなあ、と懐かしく思う。
今は小さな頃ほどではないが、多少気分が高揚し、楽しみにできることがひとつやふたつなんとかあって、そういうものから生きる活力をもらうことができる。
泣くほどに悔しくなれることって良いなあ、と。
一生懸命にやってきたんだろうな、と見たわけではないが、見えてくる気がする。
脳内で自分が思いたいよう、見たいように置き換えてイメージしているとは思うが、少なからず伸ばす、ということは、苦とも向き合い乗り越えることが必要で、仕上がりをを見ると伝わってくるものである。
それでいても結果に伴いことは多分にあることで、あと一歩及ばず、たった3cmの距離がと分かった時にはなんともやるせないことだろう。

さて、自分の過去を振り返り、自分は一体何を頑張ってきたのか、と考えると、少々悔しくなる。
ある年を境にやらないといけない状況になり、長い間走り続けないといけない時があった。
鬼ごっこのように楽しいわけではなく、本当の鬼に迫られるように、辛く苦しいことの方が多かったように思える。
それは、もう既に笑い話となるし、なんだったらそんなことで…とも思うわけだが、まあ、自分なりに一生懸命生きていただんだよな、と。
いつか描いた理想の形とはかけ離れた道を歩んでいるのかもしれないが、どうやらこれが私の歩む道、らしく、あらゆるもの、そして自分に責任を問うことは容易なことではあるが、それは全くと意味がないこと。
木から舞い落ちた赤い葉が後ろでからっと後ろで落ちた音が聞こえた。
風に吹かれ、少しだけ揺れている。
鼓動が消えゆこうとしている。
僕の過去になろうとしている。
少しだけ眺めていていいかい。
この時の自分は一生懸命に生きていたかい??
遠くで子ども達の賑やかな足音が聞こえてきた。

今日の作業用BGM

The 1975 – Chocolate

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