1+1=2
自明の理。
人のことはこれで凡そ理解できてしまう。
自明の理の構造下でどのような態度を取り、
どのように動作するのか、
正しく符合させるために動くからだ。
符合しなければ、
この構造下では正しいものではなく、
間違いと評価される。
符合しなければ計算を間違っており結果は出ず、
詰められ、罵倒され、嘲笑される。
ならカウンターとして「田」と言えば面白いが、
正しい符号があって面白いものとされるわけであって、
それを「答え」としてしまうと笑いものである。
構造内では人を凡そ理解できてしまうが、
奥深く分からないのは本音である。
符号とは建前であり、
本音とはひゅるりと手から抜けてしまうようで掴むことは難しく、
本音を述べる表情には自信がなく、
それとは当の本人でさえ分かりかねることだからだ。
例えば、人が共通理解する「優しさ」とは
建前であり理想の形であり、本音とは若干ニュアンスが違うものである。
符合させる態度を見せつつも、
真に受けてはならいなのだ。
言葉の裏に何やら目的や意図がある。
内包されるものを拾ったうえで符号させないといけないわけだ。
何気ないコミュニケーションは、
大変複雑であり高度な技術が必要とされる面倒くさいもののようだ。
純粋に言葉を受け止めてしまうと、
知らぬ間に吊り上げられ、
石を投げつけられ、
火であぶられるようなものだ。
何気なく日常的に形容される関係とは契約によって成立している。
甲乙、いずれかの不履行は契約を破綻させ、
罰を厭わないことを暗に承諾している。
さて、形とは時間をかけて変化していく。
体型化された思考はすでに過去のものとなり、
未来はすでに違うものとなっている。
そう思っていた、けれど…、となるのが、
面白いことである。
本音とはどうやら違った式で動いているのだろう。
新しく生まれてくるものは自明の理の外で誕生し、
自明理の理が追い付き包括する。
常に私たちは1+1=2という式の意味を広げてきたわけだ。
最適化が効率的である。
しかし、どうやらそれでさえ飽和している現代、
成熟した構造の中で人は窮屈で苦しそうだ。
最適化と効率とは美しく心地が良い反面、
底にある流れをスムーズに活動ができるようにする
システムを固めるようなものだ。
それが完成したのならば、
見慣れない歪な形や、違和感を抱く形にも視野を広げ、
構造を広げる仕組みを作る、、
恐れずに挑む、目を向ける必要がありそうな現代だな、
と思ったのだった。
何故ならば、既存のフレームの中で窮屈にうごめく者達が
構造を歪ませているのだから。











